伝えると伝わるの違い

 午後十七時四十分に、その会話は始まりました。


 彼女は言います。「ずっと確認して欲しいと言っていたじゃないですか。早く資料を出さなければならないし、出した方が良いと思っていたので、何度か連絡もしましたよね。」

 彼は言います。「確認はしていましたよ。多少なりとも資料にも手を加えておきましたし。見ていなかったわけでは無いです。確かに忙しくて、資料に手を加えたことをお伝えしていなかったけれど、見れば分かりましたよね。」

 このひと悶着については、その後およそ15分程度は続いていたと思うのですが、兎にも角にも、その全てが私にはどうでも良かったと言えます。二人の話は、常に一人称で妥協点が無かったのです。折角、目の前に相手がいるというのに、その口から発せられる言葉は、全て一人称で構成されていたのです。それでは話し合いではなく、言葉による殴り合いです。相手を目の前にして、愚痴を吐き出しているだけの口喧嘩の時間なのです。

 これを眺めているだけなのでしたら、幾分かは耐えられたかも知れません。しかし、私はその3人だけという逃げ出すことを許されない空間に、実に召喚されてしまったわけです。表情には出さないように意識していたつもりですが、私の内心は苛立ちを抑えるので精一杯でした。双方の仲立ちをする立ち回りをしてみても、火の粉はしっかりと降り掛かるのです。矛先が私に向けられることすらあるのです。さっさと、この不毛な着地の見えない対話から抜け出したい。私こそが最も不愉快なのだと、分からない2人の前から解き放たれたい。

 そこで私は、敢えて双方に油と火を注ぎ、矛先を一度は私に向けさせてから、双方の課題という弱点に強烈な矛を突き刺し返しました。一切オブラートに包むことも無く、普通なら言わないであろう露骨な言い方で極刑を下しました。両成敗というやつです。

 残念ながら、ここで終われません。この後に二人が互いに矛を向けあうことが分かっているからです。一瞬とはいえ私に矛先を向けていたものの、相手を間違えていたと気が付くわけですね。そこで私は間髪を入れずに、その発言に対して謝罪をして、こころの炎を沈下させに動きます。二人にとっては、釈然としなかったでしょうし、当然に違和感のある沈下です。言い包めるという手法です。

 最後に「私預かりで、一旦この場を閉じさせてくれ。冷静に何を話し合いたかったのかを考えた方が良い」と提案したわけです。要するに独り芝居をうって、私の舞台に誘い込み、幕を閉じる権利を奪ったわけです。幕引き、いや幕を閉じる役者がいなかったので、その役者に転じたという表現の方が正しいのかも知れません。

 さて、私は本音でぶつかり合える組織は、とても有力な組織だと考えています。

 特に日本の文化が常識として蔓延り纏わりついている組織においては、お互いに意見しあえるという間柄とは、とても貴重で奇な関係なのです。例えば職場でも学校でも良いのですが、「みんなで話し合いましょう!」となったとします。その空間では、どれほどの意見が交換されるでしょうか。きっと、いつもの誰かさんが発言をして、大半の参加者は「うんうん」と聞き流して、物静かな時の流れを感じながら、流れ作業でアジェンダが進み、その場もお開きになるという流れではないでしょうか。

 そしてお開きとなった後に、時間の流れが止まっていたことを理解します。発言者の伝えたかったことは、その時間は確かにあったというのに、打ち合わせの最初から最後まで「記憶に御座いません!」という大衆の宣言として現れるのです。そうなれば、発言者から「寝てました?もしかして耳栓してました?まさか酒でも飲んでましたか?」という、皮肉交じりの問いが発せられるのも時間の問題です。

 ええ、確かにその人は話したのです。言葉で伝えたのです。メッセージを届けたのです。目と耳に刺激を与えたのです。そして自己満足したのでした。しかしその刺激が届いていたのは、自分にだけだった、ということに気が付いていなかったのです。個人的な発信による満足感で高揚してしまうと、簡単な解を見逃してしまいます。

 伝えると伝わるは違うという解。効率的な伝え方ではなく、不効率な伝え方によって伝わる。

 伝える側の考えは「伝わって欲しい」だったとしても、聞く側には、話を受け入れようという考えは有りません。これが解です。仮に相手が家族や恋人であったとしても、その解は変わりません。これを断言してしまうと、反論が四方八方から飛び交って、私が蜂の巣にされてしまいそうな気がします。それでも、これが解です。ただしです、私を蜂の巣にするであろう貴方のその考えが、ひとつの鍵であることも真実です。

 世の中には、幾つかの「理」が存在します。イコール「絶対」ではありません。私は生まれながらにして「私」です。私が誰かになることはあり得ませんし、誰かと入れ代わることもあり得ません。それが何だというのであれば、解なのだと返します。もしも貴方が家族や恋人の要求を受け入れようと話を聞いたとしても、それは、その話題を聞きたかったのではなくて、要求を受け入れるという行為で自己満足を得たいという欲求解消をしたかったに過ぎません。

 「私は〇〇が欲しい」と言われたとして、それを貴方が叶えたとした場合、その相手が本当に望んだものを手に入れたとは限りません。相手が本当に望むものを叶えるためには、更に具体性が必要なのです。しかし貴方にとって、その具体性は興味が無いはずです。むしろ自分の考えたシチュエーションで脚色し、喜ばせたいと思いませんか?愛情によるそれは、感情コントロールのひとつであって、本件のそれとは異なるのです。

 伝えるモノによって、伝え方は異なるが、その不効率は同じである。

 何かを「伝える」という行為は意図的なものです。私が導き出した解が何かというと、押し付けがましく、相手に動いてもらうことを強要する初手が「伝える」だということです。もし「伝える」のであれば、それは伝えた結果が伴わなければ意味を成しません。ですから「伝える」には、必ず意図があるわけです。その意図に仕向けるためには「伝える」だけでは足りないのです。その後も継続する非効率な工程を経て、初めて「結果を伴う」つまり「伝わる」のです。

 「伝わる」とは、意図的に相手を動かした結果のことです。その結果が現れたことによって、始めて「伝わった」と判断ができます。そのための非効率な工程を行っていなかった場合、結果が伴わない可能性があります。「私は〇〇が欲しい」といっても、望んだものと違うものをプレゼントされるかも知れません。もしかたら、忘れられてしまうかも知れません。相手にとってそれは、自分の欲求では無いからです。受け入れる必要なんて無いのです。人は個であって、個において自由ですからね。

 ですから本編の最初に記載した二人の会話は、私にとっては不毛で怪訝極まりないものでした。解を使えば一言で終わります。あなた方は「相手が意図通りに動くまで伝えたのか?」それを怠っていたのであれば、どちらも何も伝えてなどいない。自分の発信した一言一言に、なんなら一文字一文字に満足し、自惚れ、やり切ったという妄想に浸っただけでしかない。その見っともない様相を私に露見して恥ずかしくないのか。迷惑極まりないわ!

 伝えたいのなら、伝わるまで伝えきれ。そうでなければ、意図を押し付けるな!

 後日、私は二人に昼食に行こうと誘われました。私にも多少の予定があったのですが、「今日は奢りますから」という追加の一言と、もう一人の熱視線という些細な非効率に乗せられて、見事にその気持ちが伝わってしまったわけです。

仲良くしてくださいね。

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