変えたいと思うなら、変えないことです
今夏の日差しは、一層に厳しいものとなっていますね。地球の温暖化が問題視されるようになってからも、依然として状況は悪化しています。人は便利を求める変わりに自然を破壊して、生存の危機を招いている状況です。人間の寿命を尺度として換算しても、かなり短期間で自然を破壊してしまってるのでは無いでしょうか。自分が生きている間は、少しでも快適に過ごしたい。それは私も望むところではあるのですが、いささか求め過ぎなのかも知れません。
世界経済フォーラムからの発表を見ると、今年は「観測史上最も暑い年」になる可能性があるとのことなのですが、数年に一度は同じことを耳にしている気がします。合間に冷夏といわれるような年もありますので、それが理由なのかも知れませんね。実際には、日々で温暖化が進んでしまっているのが実態です。
その様な中で、ふと考えたことが有ります。仏教の教えにあるような輪廻転生があるとして、次もこの地球に転生するのだとしたら、私は何へ生まれ変わることを望むだろうか。きっと、私はその気候に耐えられる存在であって、知能が極端に低く、何も感じないような存在への転生を望むでしょう。人間として転生をしたい気持ちも有るのですが、きっと次の時代は、過酷な地球環境の中で必死に生存しようとする人生になると予測をしたからです。これは経済活動の話ではなく、生命活動の話であって、それほどに地球環境は悪化しているように思います。
子供の頃、扇風機の風だけで過ごせた夏。
都内でも全ての道路がアスファルトではなく、砂利道なんかもたくさん有りました。干上がった地面に水を撒くことで、僅かでも清涼感を得たものです。その光景も情緒がありましたね。また梅雨の終わりと共に蝉が地上へと現れ、残り儚い一生を掛けて、夏の始まりから終わりまでを教えてくれていました。気が付けば、蝉の羽音も耳にすることが極端に減ったように思います。それは、僅か30年にも満たない時間での変化です。
しかし、日本人が夏の涼しさを求めた結果が温暖化現象の原因ではありません。これは、人類が世界中で技術革新を求め続けてきた結果です。人は便利な生活に変えたい思い、変えてはいけないものを見失っていたのでしょう。けれども、昨今ではそれに気づくことができて、自然環境保護に加えてSDGsという社会的概念も生まれてきました。今から未来に向けて生存し続けるための「変えたい」が動き始めたのです。
そんな暑さを迎える少し前から、私は神社への参拝を日課として始めました。自宅から片道徒歩10分程のところにあるので、起床後の軽い運動には丁度良い場所だなと感じています。参拝を日課するようになった目的は幾つかあるのですが、その神社でお願いすることは日課としてから一度も変わっていません。神前で手を合わせ、決意が揺らがないようにと継続的な努力を誓い、それが活かせる様な機会をいただけるように毎日お願いをしています。今のところ毎日欠かさずに参拝をしているので、必然的にお百度参りも達成されそうですが、それは別の話。その神社には、必勝祈願の御利益を求めて多くの方が参拝されるようですが、そういう意味でも私の願いと結ばれるところがある訳です。
さて、私は書くことや描くことを45歳になる直前に始めたのですが、それを友人や会社の同僚に話をすると「今更」とか「才能が必要」といった、否定的な諭しを聞かされることがあります。確かに、何事も若い頃から探求して技術を磨くのが理想的ですよね。もしも私が、20代の頃から始めていたとするのなら、約20年のキャリアを積めたことでしょう。1日あたり4時間を費やすことができていたら、単純計算でも約3万時間をそれに掛けれたことになります。更には、ある一定の時期から仕事にできるようになっていたと仮定したら、その倍以上の時間を費やすことも可能だったのではないでしょうか。計算した時間は、たらればの話では有りますが、いづれにしてもその時間差を埋めることは不可能です。成長の度合に個人差があるとしても、その時間を費やしてきた方々と雲泥の差があるのは、紛れもない事実だと理解しています。
けれども、「今更」とか「才能が無いとね」という言葉で、始めることを否定することは理解ができません。
そもそも、「今更」の前提条件は何なのでしょうか。いつ始めていたら良かったのでしょうか。それは仕事にすることなのでしょうか。私が20年前に始めていたからといって、仕事にできていたと言えるでしょうか。現在、正にその道を進まれている若い世代の方々についても、10年や20年後に活躍されているかなど知る余地も無い筈です。それでも、活躍をできる期間を考えれば根拠の1つにもできそうですが、それは企業に就職して働くことを条件とした場合の筈です。そもそも仕事をする期間に条件などは無く自由なものですし、個人でも活躍をできる現代においては、根拠にできないのです。
では、「老いると覚えが悪くなる」という、身体面を根拠にして諫めようとしているのでしょうか。ちなみに医学的には、肉体は老化しても脳は老化しないと発表されています。私は医師では有りませんので実態感より、知識の面において吸収力が低下していると感じるのは、既に得ている知識が邪魔をしてシンプルに受け入れられなからでは無いでしょうか。また肉体面においては、20歳前後がピークと言われますが、それはアスリート級の肉体強化を求める場合に限ります。事実として、私は体力強化を目的として筋力トレーニングを始めたのですが、今より若かった数年前より確実に体力が付いてます。もし仮にアスリート級の体力を誇っていたとしても、日々のトレーニングを行うことで、ある程度は体力の維持をできます。サッカー選手の三浦知良氏が、56歳になった今でも現役を続けられるのは、絶え間ない努力を続けられているからなのです。
詰まるところ「今更」というのは、自分の後悔を指す言葉であって、他人に対して発する言葉としては相応しくないというのが私の解です。もし他人に対して言葉を発するのであれば「どうして今までやらなかったのですか」という疑問を伝えるべきなのだと思います。少なからず、羨みや妬みから発するような誹謗中傷だけは避けるべきでしょう。
もう1つの「才能が無いとね」については論外レベルの発言ですね。そもそも「才能」の有無をどうやって判断したのでしょうか。例えば生まれたての赤子を観察して「才能」を有無を判断できるでしょうか。それは不可能ですと断言をしておきたい。赤子には「可能性」を感じられたとしても、その子の「才能」を計ることは不可能な筈です。何故ならば「才能」とは、何かしらが表面化したときに発見できるものであって、何もないところで、それを判別することなどできないからです。
そして何よりも「才能」とは、努力の末に開花するものだと私は考えています。そして、その努力にも質があるのです。反復練習することも努力の形ではありますが、そこに「考える」ということ付加されないと、努力は報われないと考えています。例えば、毎日走るという反復練習をするだけではなく、走るフォームを考える。食事のバランスを考える。運動する時間を考える。そういった「考える」が加わることで、努力によって生み出される結果が大きく変わってきます。この結果の差が「才能」として認知されているというのが私の解です。「鬼才」と称される方は、その努力の量と質が尋常では無いということが容易に想像できます。強いて言えば「才能が無い」とは、「努力が足りない」と同意とも捉えることができるでしょう。そして、その「努力とは1日にして成らず」なので、始めたばかりの人に伝える言葉としては、あまりにも不適切だという事です。
私の解は「思い立ったが吉日」で良いです。この解の条件は1つだけで、他人に迷惑を掛けないことです。
きっと、生きている限り「変えたい」と思う機会は何度か訪れると思います。私はそれを「可能です」と断言します。「今この瞬間に変えたい」といった妄想ではなく、「努力とは1日にして成らず」を理解した上で、現実的な話であることが前提ですけれど。ただし「変えたい」に於いては「変えないこと」が重要です。それが今回の解なのですが「変えないこと」の主語は「意志」のことです。「変えたい」という意志を「変えないこと」が重要なのです。その意志が「変わる」為の行動を守護してくれます。
誰かの言葉に惑わされたり、世の中に蔓延る常識に呑み込まれたり、そんなことで簡単に意志が変わってしまうので有れば、それは「変わりたい」と本気で思っていないのでしょう。それはそれで良いと思います。何故ならば、意志を変えてしまったら、そもそも変えることを実現できないからです。
私は自室で、本業の休憩時間に黙々と文書を書き続け、本業を退勤すると黙々と絵を描き続けています。「今更」ではなく「今だから」始めています。若かりし頃の私よりも経験が豊富になった分、私は考えながら努力を続けられるのです。様々な経験が感性となって育った今だからこそ、もしかしたら「才能」が開花する可能性もあるかも知れないと甘い期待もしています。それらは後付けの理由であって、素直に書けて描ける人に変わりたいのです。
今日も夏の日差しは変わらずに降り注いでいます。とても暑く揺るぎない日差しです。