時間という光景
今日も最寄りの駅には、概ね定刻通りに電車が到着しました。日によっては事故や点検により、遅延が発生することも有るのだけれど、運休になることは稀です。さらに遅延に際して言うのであれば、10分前に来る予定だった車両が今このタイミングで到着しているだけであって、私が乗車することにあたっては影響はありません。
けれども、まったくの影響が無いとも言えないか。普段は10分程度を待てば座れる車両が定刻に来ないわけです。少なくとも遅れた時間を取り戻そうした人達で、ゼリービーンズを詰めたガラス瓶のような車両を作り出すことにはなる。私もその光景を突き付けられて、直ぐに乗るか、あえて遅延を受け入れるかの判断を求められたのです。
その日の私は時間に余裕があったので、結果的には特等席を手に入れたのですが、それにしても昨日とは明らかに違うのでした。いつもの同時刻、始発車両が到着してから、僅か30秒程度で決着のつく椅子取りゲームは、普段よりも苛烈だったのです。
そこにあるのは、過去と現在が融合した結果により生まれた光景です。
遅延の中で生まれた長蛇の列は、焦りや不安を抱えています。更に次の時間へと押し出された人達が、混雑と混乱を生み出します。そのような中で、遅延を受け入れた人達の整列という行為は、人目を憚らう意図に過ぎません。座った者こそが勝者というルールが「吾輩の辞書」には記載されているのですから。そして、そのゲームは車両の扉が開くのと同時に開始されます。
この椅子取りゲームは参加者が少ないほど、幸福になれる可能性が高くなります。基本的には座席数が決まっていて、減らされることが無いからです。ただし、いつもと違う車両がくると、連結付近の座席が片車両だけ無かったりするものですから、安心の絶対ルールではありません。そして、いよいよゲームが始まったのです。
始まりは穏やかです。先頭から2番目くらいまでの人たちは、余裕をかましてゆっくりと乗車していきます。私もその位置に陣取ることがあるのですが、早くから並んでいた自負からか、急ごうとする後者に対して「何を急いでいるの?」と言わんばかりに、ゆっくりと乗車しようとするのです。3番目の人たちは絶妙な位置ですね。私はまさにそこに陣取っていたのですが、選択肢が豊富で自由度があり、何よりも安心感があるのです。
問題はここから、それより後方に並ぶ人たちです。左右の扉の進行状況が気になって、前衛のノロノロ進行に苛立ちを隠せません。心は既に自席を狩るハンターと化しているからです。人から獣へと化けてしまうのです。そして前衛を押しのけてまで、席を奪う謀略を練る人まで現れます。
時間が交差し混雑すると、光景は著しく変貌するものなのです。
そのイライラは、車両がフォームに入ってくる段階から始まっていました。車両はフォームに入ってくると、停止状態にするために速度を落とし始めます。大抵の場合は、前衛がその様子を見て乗降口に近い位置に一歩前進するのですが、今回は前進をしなかったのです。扉まで僅か1メートルもないような差なのですが、それが勝負の分かれ目なのでしょう。人は獣から悪魔に化けたのです。
ここまで書きましが、私が何か嫌な思いをしたわけでは有りません。けれども、嫌な思いをした誰かが、そこには居たように思います。最後の一席の奪い合いは、荷物が無いほどに有利です。大きな荷物やリュックは不利に働きます。それは行か?列か?どちらかの呼び方が正解なのか知らないのですが、窓に平行に並ぶ長椅子の争奪戦において、知っておくべきことなのでしょう。最後の戦いは、両者無言の目配りで終わりました。ようやく、椅子取りゲームは終わりを告げたのです。
それにしても、この体験は時間にすれば30秒程度のことなのです。たかだか30秒程度のことです。人生は100年時代に突入したらしいので、それに準えるのであれば、3,153,600,000秒のうちの30秒です。このように数字化すると貴重にも感じられますね。けれども、それだけのお話です。しかし私は、そこにあった時間という光景を何時間も見ていた気がします。
時間が混雑するということは、ひとつの時間の濃度が濃くなるということです。
時間という光景には、今と繋がっている過去と未来があります。それはひとつであって、複数ではありません。時間において、その存在の解を求めるのであれば、すべての時間は繋がっていて、バラバラに存在するものではないものと言えます。また限られた一点にあるのではなく、限りなく広く、少なくとも私の視覚に収まるもでは無いとも言えるのです。
時間を視覚的に捉えるとしたら、自分の中にある記憶も含めて捉えないければいけません。何よりも難しいのは、絵画のような静止画ではなく、動画という点です。時間は動き続けています。前にも後ろにも左右にもです。次元を超えるというのであれば、そうなのでしょう。そして、少なくとも私は未来に向かっていく時間の額縁に、その光景を当て込んでみる方法しか知りません。動きのある時間という光景は、時間の上に置いてしか見ることができということです。
ここで余談ですが「自分以外の時間を止める」というテーマは、いろいろな物語で採用されています。でも私の解からすると、明らかに偽りであって虚構なのです。もしも私という存在以外の時間を止めてしまったとしたらですよ、私はそれから間もなく死に至ると言わざるを得ないのです。何故か、お分かりになりますでしょうか。
時間が止まるのであれば、当然ですが大気の流れも止まるのです。つまり息を吸えません。身動きも取れません。目に見えるものが全てでは無いのです。大気にもあらゆる粒子が集まり、それが動いています。時間という光景のひとつとして存在しています。それを止めてしまったのですから、結果的には自分も動けないというのが解です。つまり、時間を操る登場人物が動いてしまっている段階で、フィクションなのです。
私は、多くの人が時間を光景として捉えていると考えています。音楽に精通している方であれば、音として捉えているのかも知れません。アスリートの方は、体感で捉えているのでしょう。芸術家においては、静止画として捉え表現に挑まれている方もいます。目に見える光景をそのまま描くのではなく、幾何学的な形として捉えるという手法を使うのです。有名な芸術家であれば、「近代絵画の父」とも呼ばれるポール・セザンヌ氏や更に追求したパブロ・ピカソ氏でしょうか。私がゲロニカを始めて観た時の感想は「怖い、この絵は動いている」でした。
幾何学とは、図形や空間の性質を研究するために生み出された数学の一部です。測量学とも言えるのでしょうか。それを使うことで、アインシュタイン氏は時間の概論として相対性理論をまとめられています。それが正しい理論なのかを判断するなど、私には到底及ばない偉業の産物です。ただ、幾何学を使えば時間を理解できる可能性が有るのかも知れません。
私が今日書いているのは、時間の光景についてです。
私は時間というものが何かということには、大して興味がありません。どちらかというと、考えるのが恐ろしいという事柄のひとつです。それは未来を知ることが怖いのと同じです。過去を知るのも怖いのです。ですが、事実を知りたいと思う好奇心はあります。それを映像として追っているのです。光景は視覚的に捉えられます。時間は視覚的に捉えられるのです。
今日の私が30秒を数時間のように感じていたのは、様々な時間の光景を同時に楽しんでいたからです。そこで繰り広げられる一瞬の駆け引きには、そこに登場する人物の過去から未来への光景があります。その瞬間だけを見ようとしてしまうのであれば、それは大きな絵画の一点だけを見つめている状態です。視界の外にも光景は広がっています。もう少し身を引いて見てみて下さい。
そこには、必ず見えてくはずです。目の前の光景と一緒に、朝早く駅に向かって急いでいた姿や、これから仕事や学校に行く姿が見えてくるはずです。それが今進んでいる時間の上に重ねてみる時間の光景です。そして、見えている光景は動画であろうと推測します。その視界に慣れてくると、そこには音や香りや感覚が重なってきます。それが私の見ている光景です。
それは、フィクションであり、限りなくノンフィクションです。
いやいや、フィクションだろうと思われますよね。いいえ、光景の一点や断片だけを見ているのであれば、それは妄想なのでフィクションですが、光景を途切れさせずに前後左右を見ることができた時、それは限りなくノンフィクションになります。