ドッベルゲンガー
最近は、殆どの打ち合わせがオンラインとなり、顔を直接付き合わせて話す機会が無くなってきました。勤務も自宅でしているので、人とのコミュニケーションも減っています。何処かに存在しているであろう誰かと、私は画面越しに会話をするわけです。そういえば、見えない誰かとコミュニケーションをとるという上では、TwitterやLINEなども、それらの奔りかも知れませんね。
顔出し不要のSNSでは、自分を立証する必要がありません。個人情報を証明するツールは少なく、むしろ顔出し不要を謳ったツールが増えているのが実態です。そのため、フリーランスが仕事を請け負うようなサイトやツールでは、本人証明書の提示が必須となっています。それでも、本当に立証できるとかと言えば危うい限りです。
いつの間にか、匿名が世の中の標準スタイルになりつつあるのでしょう。世界的なパンデミックを引き起こしたコロナも落ち着きを見せてきていますが、街中を歩けは3分2は未だにマスクをされています。夏にはマスクが外されていくだろうと推測されていましたが、日本人の多くは顔を隠し続けたいようですね。コロナが無くなったわけではないので、マスクを継続して予防されるのは問題ないのですが、直ぐにマスクを外した私からすると、異様な光景にも感じます。
AIの最新技術で顔認証も発達してきたのですが、マスクは非常に厄介なのだそうです。どうしても認識制度は落ちてしまう。人間の視覚ではどうでしょう。少なくとも私は、友人と待ち合わせをしても、場所を特定しておかないと雑踏の中からは見つけられる自身がありません。
こんなパターンの経験もあります。初めてお会いしたのがマスク着用義務のあった頃で、その方がオンライン打ち合わせの席に参加されたのです。ところが、その方はマスクを外して参加されたので、素顔を知らなかった私は、どの参加者がその方なのか分からず、話を濁しながら遠回しに確認をしたことがあります。その場は笑い話として収まりましたが、これは意外に笑い話で済ませられないのですよね。
目元は化粧で変化をさせやすく、異性に化けることもできます。タレントのざわちんさんは、その化粧で様々な別のタレントさんを真似てブレイクされましたが、口元を隠してしまうと変相をしやすくなります。異性に化けるのは容易でのですよ。もし体格が似ていたら、別の人に化けて近寄ることが簡単にできてしまうのです。それって怖くないですか。オンライン上であれば、変声も容易にできる時代ですからね。もう誰が誰だか分かりません。
もしも仮に、家族や友人が誰かの成りすましだったらと思うとゾッとします。出張中に家族に連絡したつもりが、実は家族でもない誰かだったら。友人に相談していたつもりが、本当は別の誰かだったら。浮気程度を想像するなら可愛いものですが、何かの事件や事故に巻き込まれていても、気づけないことになります。浮気も紛争の火種となるので、軽いものでは無いですね。作家の燈火としては、良い構想ネタともなるのですが、現実的に考えると末恐ろしい限りです。
かくも燈火という人物は、この記事を書いているドッペルゲンガーです。私であり、私ではない存在。燈火という作家名には、本人を知らないことで想像を膨らませて欲しいという狙いがあります。けれど、私が何かしらの方法で自分を証明していないと、このドッペルゲンガーは量産できます。誰でも燈火になれてしまうのです。もし燈火の名で、誹謗中傷を拡散したとしたら、そのドッペルゲンガーは本当の燈火を食い殺すことになるでしょう。
さて、ドッペルゲンガーという名称を使わせていただきましたが、本来は真似したものを指す名称では有りません。誤解が無いようにしておきたいのですが、ドッペルゲンガーとは自分自身の姿を幻覚で見る現象の事を指します。諸説ありますが、どちらかというとスピリチュアルな方面の話です。
私は書き手、描き手として知られるようになった姿を想像し、その私に燈火という名を付けました。実際にそれは私自身で有り、幻想した姿ですからね。燈火は、普段の私を通して世の中を観ています。そして書き描くのです。その時間だけ、私はドッペルゲンガーの燈火となっています。Twitterなどに投稿するときは、両方の私がいます。それなので、投稿される内容や言葉使いも異なります。それに私が気が付いたのは、つい最近の事です。意図的に変えているのではなく、役者さんが配役になりきっている時と同じような状態だと思います。
誰もが理想の自分を持っている。理想に向かって歩み出すと、その理想に近づいた時にドッペルゲンガーに出逢えるのだと思います。ですから、ドッペルゲンガーに出逢ったときは、快く受け入れて挙げて下さい。それが悪意に満ちた幻想でないことを願います。