第一章 常識マニュアル
僕とあの人との出逢いは、遡ること3年ほど前になる。高校を卒業した僕は、世間一般的に言うところの浪人生活をスタートすることになった。大学進学に成功した友人もいれば、就職を選んだ友人もいる。僕の様に浪人する道を選んだ友人も少なからずいる。浪人とは何だろう。そもそも浪人とは、古代において、本拠地を失って流浪する者を指した呼称だったらしい。僕にとっての本拠地とは学校だった。現代では、再受験の準備をしている者を浪人生と呼ぶ。僕はその一人になっていた。
僕の日常は学生時代となんら変わっていない。昼間は通い慣れた校舎ではなく予備校という名の学校に通い、帰宅してからも一応は勉強をしている。土日も勉強をしようと努力は続けている。けれども僕は、優等生などでは無く劣等生だ。何処かで何とかなると思っていた僕の人生は、高校を卒業して予備校生となって既に2カ月が過ぎようとしていた。学校が僕の本拠地だと言うのであれば、僕は浪人生ではなく学生だ。大学生と同じように学生をしている。進んだ学校が違うだけだ。入試も無い、お金を支払えば入学できる学校に進学したのだ。
今日も南北線に乗って仙台駅を目指し、駅から徒歩10分ほどのところにある予備校に通った。それはそれは一生懸命に勉学に励んだ後、またもや南北線に乗って家路を急ぐ。急ぐ理由を問われるのであれば、それはゲームをするためだ。受験生である僕がゲームをするためには、僅かな時間でもリビングの主がいない時間を活用するしかない。僕はソーシャルゲームが好きではなく、ハード機を使ったものが好きなのだが、それを楽しむにはリビングに赴くしかない。一定の条件が揃った時にだけ、僕はゲームをすることができる。
「ただいま。」
「お帰りなさい。」
無理ゲー確定の瞬間だった。母さんはパートを終えて、既に帰ってきていた。僕は好きなゲームをしたいだけなのだが、当然のごとく許されることは無い。そのため、高校卒業の間際に購入していた新作ゲームは、クリアもできずに風化しつつある。そもそもではあるが、”春休み”を期待していたことが間違っている。僕の思考は、大学受験を失敗する前から立派なニートだった。そう、浪人という名に違和感を感じているのは、僕が進学意欲の無いニートだったからだ。親の稼いだ金を使って、ただ自分の保身を理由に予備校へ通っている。大学に進学することも、その先で社会人になることも、まるで実感が無い。まったく意欲が湧かない。今のところニートになった僕は、大学に進学した友人達を羨むことも無く、もちろん焦ることも無く、何となくの毎日を過ごしている。それでも世間体は少し気になるので、浪人生という称号を得ることにした。常識とは、僕の様な人間にとって大抵は都合が良い。最後の合格発表の日、それを父さんと母さんにお願いした。今は大学に通うのが常識だ。僕はその常識を利用して、浪人生であり学生の称号を手に入れたのだ。
今日もゲームをするのは無理だと分かったので、そのまま自室に向かった。落胆の気持ちで漆黒の机に座り、また参考書を開こうと思う。開いたとしても、僕の右手はスマートフォンを操作するだけでペンを握らない。今日は参考書すらも開かれてはいなかった。リビングには、僕の娯楽を許さない絶対の主がいるわけだが、部屋に入ってしまえば誤魔化せる。とっくに集中力など切れている僕は、スマートフォンでSNSを覗くか、動画配信サイトを眺めて時間を浪費していた。たまには友達と気晴らしにでも行きたいのだが、残念ながら友達だった仲間も、立派に大学生となっていて、キャンパスライフとやらを満喫しているらしい。そうなると、土日祝日という学校の公休日を待つしかない。嬉しい金曜日、憂鬱な月曜日。相も変わらず、僕の時間の使い方は何も変わっていない。高校時代と同じだ。けれども、少しづつ変わり始めていた。最近になって、友達に声を掛けても断られる回数が増えてきたのだ。そうなると土日祝日は、引き籠りになる時間が増えていく。彼らには、既に新しい世界が広がっているのだろうか。僕の世界は狭くなったというのに、それを考えるとやるせない気持ちになる。
はぁ。ため息が漏れる。一層、大学進学なんて諦めて就職活動でもしようか。その様に思い始めたのは、青空が陰り曇り空が増え始めた6月のことだった。でも父さんや母さんには、なんと説明をしようか。きっと、父さんは自由にしたら良いと言ってくれる。母さんは反対をするのが目に見えている。少なくとも、今更で何を言っているのかと問い詰められるだろう。なんと説明をしようか。別に本気で就職をしたい理由も無いのだけれど、引き籠りのニートの称号は欲しくない。何かしたいことが有る訳でもなく、考えるのが面倒くさかった。だから僕は、常識っぽい大学進学というキーワードを使った。何となく浪人生をしているだけで、引き籠りのニートでは無い口実さえ作れれば良かったのだ。仮面浪人生の実態は、世間一般に言うところのニートだ。
高校に在籍中の受験シーズンは、もう少し進学に真剣だった気もしなくはない。受験生御用達の赤本も購入して、真面目に勉強をしていたし、進学後のキャンパスライフなんかも考えていた。誰もが通るマニュアル通りの高校生活。今はどうだろう。予備校で講義を受けている時間は、雰囲気のままに浪人生をしているが、家路に向かう頃には既にやる気が失せている。なんと説明をしようか。考えに考えた末、浅知恵が浮かんでしまった。もう少し別のことに、頭を使うことのできる人間であれば、ニートになることも無かったのだろうに。とにかく善は急げだ、と思った訳でもないのだけれど、足は自然とリビングに向かっていた。僕はリビングにいる主の元に行って、お悩み相談という名の浅知恵を使ってみることにしたのだ。今思えば、魔が差したというのが相応しい表現なのだろうが、浅はかな行動であったことは間違いない。
僕の部屋は、入り口からまっすぐ廊下を進んだ突き当りの左側にある。右側は両親の部屋だ。リビングはその手前に僕の部屋と同じ左側にある。リビングの正面には脱衣室と浴室があって、その右側にはトイレがある。共働きの家庭といっても、この分譲賃貸は広い間取りなのだろう。共働きの両親様様だ。部屋を出た先の廊下は薄暗く、リビングから光が漏れているのが分かった。僕なりに悩んでいる雰囲気を醸し出しながら、リビングに向かう。そのリビングでは、母さんが食事用テーブルの椅子に座って、テレビを見ていた。
「あのさ、母さんに相談があるんだけど。」
「何、もうすぐご飯よ。ご飯を食べながらじゃダメ。」
「実はその、少しだけ就職活動をしてみたいと思って。」
「えっ、どういうこと。」
僕の想像していた反応とは少し違った。思いがけない息子の相談に、直ぐに内容を理解できなかったようだ。徐々に母さんの眉間にしわが寄っていく。上半身だけ少し前のめりになって、僕の目を見詰めるように問いかけてくる。言葉の意図を自分なりに解釈したのだろう。その表情は心配をしている時のものだった。
「何か悩みがあるのなら聴かせて頂戴。学校で何かあったの。」
「別に予備校は問題ないよ。友達もいるし、といっても授業が終われば皆も直帰しているけどね。」
僕の中では罪悪感が渦巻いていた。予備校に通いたいと言い出したのは僕だ。それも軽はずみで言った。ニートの称号を避けるために、ただ浪人生という称号に書き換えるためだけに、僕は考えも無く、常識的な展望を伝えて予備校に通わせてもらう事にしたのだ。それが、家の負担になるとかも考えていなかった。余裕があればバイトでもしようかな、とか思っていた。まあ、予備校にでも通っていれば、来年こそは大学に行けるのではないだろうかと、安易に考えていた。でも予備校に通ってみると、それが想像していた程に容易でないことが分かった。僕の周りの人達は必死に勉強をしている。学校帰りに図書館に寄って勉強をしている人達も知っている。喫茶店で勉強を教えあっているという話も聞く。誰もが、勉強、勉強、勉強だ。そして来年こそは大学に進学している。それが浪人生の本来の姿なのだろう。よくできたマニュアル通りの筋書きだ。
「その、勉強も大切なのは分かるのだけど、先に自分探しをしたいなと思って。だから、試しに就活でもしてみようと思ったんだ。」
「自分探しのために、試しに就活するって何よ。受験勉強はどうするの。今どき大学にも行かなかったら就職だって簡単にできないって、自分で言っていたじゃない。」
「もちろん分かっているよ。それは分かっている。きっと面接を受けて落ちれば、また勉強しなきゃと思える気がするんだよ。」
「何よそれ。言っていることが出鱈目じゃない。時間を無駄にしていたら、また受験に落ちるわよ。それに予備校はどうするのよ。」
やはり、理詰めの展開になってきた。それはそうだ。僕の言っていることは無茶苦茶だと自分でも分かっていたし、勉強を投げ出そうとしている様にしか聞こえないのだろう。けれども行き詰っていることは事実だった。僕が自分から予備校に通いたいとお願いしたのに、その言葉への責任なんてものは、始めから持ち合わせていなかった。ただ、僕は勉強をしたくない。今は、それだけだ。また僕は、思い付きのまま話をしている。勉強から逃げたくて、現実から目を背けたくて、受験合格するイメージが全く浮かばなくて。
「就職活動と並行して、ちゃんと勉強はするよ。面接が無い日は予備校に必ず通うから。勉強も続ける。」
「自分で何を言っているか分かっているの。そもそも面接だけ受けたいだなんて、相手の会社にも失礼だわ。」
「やっぱり、許してもらえないかな。」
「当然でしょ。もう少し常識を考えなさい。予備校代だってバカにならないし、大学だってお金が掛かるのよ。何のために高い学費を払っているのか分からないわ。」
もう、この話になると論点はズレてくる。論点というのなら始めからズレていた。僕の相談は根底からズレていた。何をしたいのだろうか僕は。けれども一方的に否定されることで、意地になり引けなくなっている僕がそこに居た。僕の悪い癖だ。正しくないと分かっていても、その場しのぎの言葉で誤魔化して、正当化する。自分が間違っているという事を認めない。認めるくらいなら、何とかして誤魔化したい。それが一番楽になれる方法だった。良さげな言葉を並べてみたり、笑顔で取り繕ったりする。大抵の場合、常識っぽいことを言っておけば、その場は逃れられた。でも今回は常識外れだ。だから揉めることになったのだ。
「だから、予備校には通うって言っているじゃないか。それに大学に進学したら、バイトして学費も入れるようにするよ。」
「それなら、就職活動なんてしないで受験勉強に専念すればいいじゃないの。」
「だから、それが出来なくなってしまったから。それにもしかしたら、やりたいことが見つかるかも知れないし。」
「そんな考えで見つかる訳ないでしょ。就職活動をしたって見つからないわよ。何を言ってるの。」
お互いに言葉が詰まってしまった。これでは相談ではなく、ただの口喧嘩だ。数分前には無かった嫌な空気がそこにはあった。母さんは変わらず眉間にしわを寄せている。その原因を作ったのは僕だ。それくらいは理解ができていたのだけれど、ここまで来ると理屈ではなくなっていた。何かに取り付かれた様に、必死に言い返していた。その後の会話については、あまり覚えていないのだけれど、ずっと平行線だった気がする。母さんは座ったまま、僕は立ったまま向かい合い、同じ話を続けていた気がする。
「いいわ分かった。私は知らない。お父さんと相談しなさい。」
最初から、ある程度は想像していた結末だったように思う。母さんに悲しい思いをさせてしまったと直ぐに気づいた。とっくに反抗期など終えていたのに、なんと親不孝なのだろうか。モヤモヤした気持ちが僕の喉を絞めつけていた。息苦しく何とも後味の悪い時間だった。僕は部屋に戻り、茫然としていた。少しお腹の空く感覚もあったが、あの会話の後で母さんと一緒の食事はできなかった。正に常識外れ。もう何だか全てを投げ出したくなる気持ちになっていた。これが自暴自棄というのだろう。自分の浅知恵が発端で、自分を追い込んでしまった。こうなると、益々勉強をしようという気持ちは薄れてしまう。漆黒の机を前に、僕はスマホを弄り始めた。その夜、同じ話を父さんにしていた。もうどうでも良かったのだけれど、やはり想像していた結果となった。
「好きにすれば良い。但し、もう子供じゃないのだから、責任くらいは持てよ。」
僕は部屋に戻ると、またもスマートフォンを手にしていた。スマートフォンを手にしていない時間の方が少ないかも知れない。それでも行動パターンに変化はあった。就職活動のための専門サイトを検索して、登録をしてみたことだ。もちろん「学歴不問」のチェックは欠かさずに選択した。それで出てきた会社の一覧を眺めて、自分でもできそうな仕事を適当に探していた。何が良いのかも分からなかったし、どれもが似たり寄ったりに見えた。家から近いところが良いな。あと可愛い子とか優しそうな人たちの写真が掲載されているところ。僕の判断基準は、その程度だった。
それから僕の就職活動が始まった。履歴書はインターネットで調べれば、フォーマットも落ちている。それを拾って名前だけ書き換える。後は、それとなく体裁を整えれば完成だ。特に資格も無いから、書けることろは少ない。志望動機などもインターネットで調べた。それっぽいものをコピーする。書き方なんかのマニュアルもたくさんあったので、それを利用して用意した。大した時間は掛からなかったけれど、面倒くさかった。続いて、面接の仕方も調べてみた。面接と入力するだけで、「面接のマナー」と書かれたマニュアルが直ぐに手に入った。楽な時代だ、考える必要なんてない。後は丸暗記しておけば何とかなる。これが就活生にとって定番の常識なのだろう。
六月中旬を過ぎた頃、初めての面接が決まった。面接では想定通りの質問が来る。それを常識的な回答で返す。お互いにマニュアル通りのやり取りをする。それから三社の面接が決まった。その中には集団面接も有った。一緒に面接を受けていた人達も、同じ様な受け答えをしてくれると安心する。間違ってない、これが正しいのだ。それでも、毎回の様に上手く答えられない質問がある。それは志望動機についての質問だ。そんなものを僕に答えられる訳がない。何となく応募しただけだし、ぎこちない在り来たりの答えを言うしかない。インターネットで調べれば、回答集みたいなものも出てくるのだけれど、面接を受ける会社の応募要項と微妙にズレている事が多い。それでも何とかなったし、後は元気に挨拶をして、好印象を受ける様に振る舞えば完了だ。
七月初旬、これまで面接を受けた会社は、何故か全て不採用だった。何を基準にして採用しているのか知る由も無かったけれど、きっと学歴なのだろうと思った。結局のところ、学歴社会というのが常識なのだろう。大学に進学するのが常識としてあるのは、それと繋がっているからで間違いない。それは僕の中で確信めいた答えだった。けれど、その後も直ぐに二社の面接が決まった。僕がこれほど面接に恵まれた理由は、今でも分からない。履歴書に貼った写真の印象が良かったのか、それとも時代的に求職者にとって都合の良い時期だったのか。予備校の夏季講習に申し込みを済ませていた僕は、まさに中途半端の代表者的な存在だったであろうが、面接先の会社はそれを知らない。ズルい選択。ズルい駆け引き。それでも、そのうちの一社が僕の運命を変えたことは間違いない。
仙台駅から徒歩で十分くらい場所。正面のパルコを左に曲がり鉄橋を降りる。そのビルは直ぐ近くにある。今日も身なりだけは整えていたけれど、気持ちの準備ができていない。どこかで、投げやりになっていた。それでも緊張はするもので、訪問する会社に近付くにつれて、鼓動が早くなってくるのが分かった。赤レンガの建物を抜けてから、スマートフォンで地図を見直す。暑い日差しを避けるために、地下への入り口らしき階段付近で影になる場所を見つけて、現在地を確認した。地図の上にある丸いマークが、目的地に到着している事を教えてくれていた。
メールを再確認して住所に確信を持ったところで、ビルの入り口に進んだ。その入り口の直ぐ横に貼られているプレートの中に、訪問先の「株式会社チョイス」を見つけた。確かここの十階だった筈だ。その先にあるエレベーターホールに向かい、呼び出しボタンを押す。この瞬間から僕の戦いが始まる。就職活動中のましてや訪問先のビルでは、エレベーターに乗るの時も緊張をするのだ。僕は既に訪問先の会社の人が、一緒に乗る可能性があると知っていた。そして見知らぬ誰かと一緒に乗ることになると、密室空間の酸素濃度が一気に低下して、とても息苦しくなることも知っている。エレベーターを待っている間も緊張が続く。良し、誰も来ない。エレベーターの到着に合わせて、ドアの横に移動する。今度は、扉が開くのと同時に中の様子を覗き込む。その瞬間に、また安堵した。どうやら今日は僕だけで済みそうだ。僕は足早にエレベーターに乗り込むと、直ぐに閉めるボタンを押した。扉が閉まり始める同時に、十階のボタンを押す。まだ終わってはいない。途中の階で誰かが乗り込んでくるケースだってある。何もないことを願いながら、それだけを考えて目的の階に到着するのを待つ。結局、誰も乗ってくることは無かった。
エレベーターを降りると、方向が分からなくなっていた。右を見ても左を見ても同じような作りで、まるで鏡面のようだった。そう言えば、修学旅行で京都に行ったときにも同じような経験をした覚えがある。そんな事を思い出しながら、勘で右側奥の方を覗いてみた。そこの壁にもまた「株式会社チョイス」のプレートが貼られていた。そこから少しだけ奥まったところに、入り口があった。大きな鉄扉が片方だけ開かれていて、その先に縦長の教卓の様な白い机が見えた。ここで良いのだろう。中に入るとウェルカムボードが置かれている。上にはチャイムであろうボタンが置かれ、その横には「御用の方はこちら」と書かれた小さな立て掛けが添えてある。このチャイムを鳴らせば良いのだろう。多少なりとも慣れてきたものだ。僕はチャイムを鳴らす前に身なりを整えて、ボタンを押した。正面に見える扉の奥からチャイム音が聞こえる。チャイムの音に僕の鼓動は敏感なっていた。少しすると、その扉がガチャリと開き、そこから若い女性の人が出てきて、にっこりとほほ笑んでくれた。
「いらっしゃいませー。目白さんですね。」
その女性は、まるでアパレルの店員さんが接客をする様な声で呼び掛けてくれた。なんか調子が狂うな、でも有難い。とても気さくに迎えてくれたことで、僕は極端に緊張せずに済んでいた。いつもなら堅苦しく迎えられて、その雰囲気に気圧され手に汗を握っている頃だ。そう言えば、面接に訪問した直後に名前で呼んでもらえたのも、この会社が初めてだった様な気がする。こういうパターンもあるのかと、自分の中の常識を上書きしながら挨拶をした。
「はい。目白と申します。今日の面接で伺わせていただきました。」
「お待ちしてましたよ。こちらへどーぞ。」
その女性は、出てきた扉の左側にある通路に手を差し伸べて、こちらですよ、と面接室へ案内してくれた。案内された時に気が付いたのだけれど、とても小柄な女性だった。少し明るく染めてカールを掛けた様なボブヘアーも、一緒に歩くと頭のてっぺんが見える。僕の身長が178センチだから、おそらく150センチくらいなのだろう。面接室は、廊下を歩くという程の距離もないところにあって、僕の背よりも更に少し高いパーテションで区切られているだけの個室だった。特に扉もついていなかったので、面接のマナーに書かれているノックしてから挨拶をして入るというマニュアルの手順も必要がなかった。
「少ししたら面接の担当者が来ますので、ここで、ちょっと待っていて下さいね。座っていて大丈夫ですよ。」
「ありがとう御座います。」
僕は案内をされたままの席に進み、足元に就職活動用に買った鞄を置いて待つことにした。座って良いと言われても、立って待っているというのが常識らしい。これまでにも使ってきたインターネットのサイトには、そう書かれていた。案内をしてくれた女性が立ち去った後、部屋の奥から扉を開ける音がした。先ほど出てきた部屋に戻ったのだろう。どうやら、今いる部屋に隣接した壁の奥に別の部屋が有るらしい。とても小さな面接室。4人も入れば一杯の部屋だ。椅子も一応4人分あるが座ってしまうと少し窮屈そうだった。
さて、五分か十分か定かでは無いのだけれど、僕の中ではとても長く感じる時間を耐え忍んでいた。もしかしたら想像に反して短い時間だったのかも知れないのだが、緊張のあまり時計を見る余裕もなくなっていた。顔は間違いなく引きつっていたに違いない。頭の中は、インターネットに書かれていた質疑応答の復唱で忙しかった。真っ白だ。待たせないで欲しい、緊張に押しつぶされそうだ。怖そうな人が来たらどうしよう、また虐めのような質問をされたらどうしよう。この時間はもう、僕にとっては虐めに他ならない。
突然、パーテションを叩く音が聞こえた。うわっと、危うく漫画の吹き出しに書かれているような、短い単語を口に出しそうだった。この面接室には扉が無い。だから扉をノックしてから入ってくるという様なマニュアルが存在していないと思い込んでいたのだ。ましてや、緊張のあまりその人の足音に気付かなかったのも誤算だった。駄目だ、冷静に装わなくてはと、それでも一瞬で切り替えて笑顔を作った。これも失敗続きの賜物である。僕の視界は、その音に少し遅れて面接室の入り口に目を向けた。これも考えてみれば一秒と満たない時間だったのだろう。その人は入り口の前で深々と一礼をすると、ゆっくりと顔を上げて、にっこりと笑顔で声を掛けてきた。
「こんにちは。」
「あれ、座っていてくれて良かったのに。まぁ緊張もするよね。リラックス、リラックス。」
そこには、僕より少しだけ背の低そうな男性が立っていた。見た目は、いくつだろう。分からない。三十代くらいだと思うのだけれど、それより若くも見えるし、いや上にも見えなくはない。年齢不詳な感じの人だった。身なりはしっかりしていて綺麗な黒のリクルートスーツを着こなしている。立ち振る舞いもビシッと決まっている。髪も短めでさっぱりとしていた。決まっていないのはそう、僕の志望動機と、その人の言葉使いくらいのものだった。
「ほらほら、まぁ座りなよ。こんなところから面接の査定なんてしないからさ。」
口調がなんだか軽い。見た目の雰囲気と違って違和感がある。明らかに何か見えない空気の圧迫感もあるのだが、掴みところがない。何だこの人、それが僕の率直な印象だった。僕の経験してきた面接は、どれもが社交辞令的な感情の無い挨拶から始まって、どうぞお掛け下さい、などと言われてからお互いが着座する。インターネットにも書かれている台本と同じ様にお互いが演技をする場所の筈だった。
「あっはい。失礼致します。」
「どうぞ、私も座らせていただきますね。挨拶も座ったままで良いですかね。気楽にやりましょう。」
その人はずっと笑顔で僕を見詰めていた。実際には、顔なのか仕草なのかは分からなかったが、じっと見られ続けていることだけは直ぐに分かった。僕は緊張というよりも、見られている気恥ずかしさで、つい目を背けてしまった。これは不味い。この面接はいつもと何かが違う。
「面接ってさー、緊張するよね。実はね、私も緊張するんだよ。」
「そうなんですか。」
反射的に訊いてしまった。いや、この展開では、誰もがそう言ったのではないだろうか。まるで操られるかの様に言葉を発してしまった。益々もって、何だこの人は、と不思議に感じる。けれどもそれは嫌味とか不快な感覚ではなくて、興味に近いものだった。それでも、この緩さがきっと罠なのだと考えた僕は、気持ちを引き締め直した。
「では、お互いに挨拶をしましょうかね。先ずは私から挨拶をさせていただきますね。」
「今日は面接の場にお越しいただき、ありがとう御座います。私は株式会社チョイスで、この営業所の所長をしている司馬 萌芽と言います。今日の面接を担当させていただきますので、よろしくお願い致します。」
その人の座り方は始めから変わっていない。背筋を伸ばして綺麗な姿勢を保っている。とても丁寧でゆっくりと話すその声は、とても聞きやすかった。これまでの面接とは違って威圧感などは感じられない。なのに雰囲気が変わったのが手に取る様に分かった。
「そうそう、目白さんのご紹介をいただく前に、私たちの会社について、少しご紹介のお時間を下さいね。」
その後、会社の説明を簡単にしてくれた。その説明によると、この会社は人材派遣を生業としているらしい。発展途上にある会社で営業の担当者が不足してきていて、その募集枠に僕が応募をしてくれたという言い方だった。僕も当然の様に、求人サイトに掲載されていた情報には目を通していたが、実のところ営業と言うのが、どのような仕事なのかは分かっていなかった。ただ、特別な資格も必要なさそうだったので応募してみたのだ。
それにしても変な流れだ。今日は会社説明会に来たわけではない。面接を受けに来たつもりなのだが、これまでの常識が壊れていく。応募先のことは、僕が調べておくのが常識だと思っていたのに、説明から始めてくれている。それに、この人は営業所長と名乗っていたので、かなり偉い人なのだろう。その様な人を前にしているというのに、緊張するどころか、徐々に和らいでリラックスしてくる様だった。
「さて、今度は目白さんの自己紹介をしていただけますでしょうか。挨拶の予習はできているかなー。」
「あっ、はい。」
おいおい、今の質問に対しての僕の回答は間違えだったのでは。でも、それなら何と回答したら正解だったのだろうか。一気に緊張感が舞い戻ってくるのを感じた。少し前に説明を聞いていた時間の余裕ぶりは、何処に行ってしまったのだろう。それにしてもだ、面接に来た相手に対して予習ができているかという問いかけは、流石に失礼なのでは無いかと思った。図星である僕には、即答で「はい」としか答えられなかったのだが。その様な雑念を振り払いつつ、自己紹介をしようとした時に、そこに被せて、この人は話し掛けてきた。
「待って、まだ少し肩に力が入っている様ですね。そうだ伸びをしましょうか。一緒にやりましょう。」
えっ何を言っているのだ、この人は。もう訳が分からない。僕は言われるがまま、その指示に従った。伸びをして深呼吸をして、そして少しだけ目を詰むった。僕の緊張が伝わっていたのか、それとも見透かされたのか。けれど何処で。僕の中で疑問が交錯しながらも、また緊張の糸が少しづつ解けていくのを感じた。
「落ち着いたかな、うん、さっきよりは大丈夫そうだね。」
「それでは、自分のタイミングでどうぞ。気楽に、気楽にね。」
そう言われても、気楽になど話せる筈もない。一生懸命に覚えてきたこと思い出しながら口に出す努力をした。かなり調子を崩されたこともあって、丸暗記していた内容が飛びそうになる。その都度、司馬さんと目を合わせるのが怖くなったが、それでも目線に食らいつく。考えている素振りなどで間を繋ぎながら、何とか最後まで言い切った。今回もまた、棒読みだったのは言うまでもない。
「目白さん、ありがとう御座いました。では、ここから本当の自己紹介をしてもらおうかな。」
えっ、何を言っているのだ、この人は。今しがた自己紹介をしたばかりだろう。これ以上に話すことなんてない。僕には暗記をした回答以外に用意は無いのだ。武器や鎧を失って、裸で戦える程の鍛錬はしてきていない。これは新手の虐めか。それなら一層、早く終わらして欲しい。右手に嫌な汗が滲み出てきていた。
「一生懸命に準備をしてきたことは伝わりましたよ。でもその自己紹介だと、私には目白さんのことが理解できないのです。私は貴方という存在を知りたいのですよ。でもね、何を話したら良いか分からなっているでしょうから、幾つか質問をさせていただきますね。答えたくない事は、気にせず答えなくて良いですよ。そんな事で評価とかしませんから。思いつくことを素直に話して下されば結構です。心のままにお話しをしてくれたら嬉しいです。」
新手の催眠術か何かだろうか。そう思ってしまっても仕方ないだろう。母さんと一緒に見ていたドラマかコメディー番組で、こんな展開があったのを思い出したからだ。それは面接のシーンでは無かったが、ディジャブに感じていた。僕が面接のためにネットで調べたマニュアルには、このような展開は書かれていなかった。僕はこの人の質問を聞きながら、アドリブで返すしかない。そのような絶体絶命の危機に面していた。
「何から聞こうかな。そうだ、今朝のご飯は何を食べましたか。」
「今日は食べてきませんでした。」
「あらら、普段から朝ご飯は食べない派かな。」
「いえ、そんなことは無いのですが、たまたまです。」
「そっか、では好きな食べ物は何かな。」
この質問には何か意味が有るのだろうか。全く想像がつかない。どのような回答が正解なのか、さっぱり分からない。記憶力を試しているのかな。それが必要なのだとしたら、営業とはどんな仕事なのだろう。覚えることが沢山あるのだろうか。いいや、表現力とかを試しているのかも。考えても想像しても分からない。そもそも、この様な質問を平然としてくるような会社に就職しても大丈夫なのだろうか。不安しかない。常識的に考えて、ここでは志望動機とかを聞くものでは無いのだろうか。
「えっと、焼き肉です。」
「そうか、焼き肉か、私も好きですよ。でもステーキの方が好きかなぁ。」
いらんよ、あんたの情報なんて。素直にそう思った。僕の目の前にいるおっさんは、何を考えているのだろうか。僕を舐めているのか、真面目に面接をする気が無いのか。そうか、もうどこか決め打ちで不採用なのかも知れない。それで、適当にあしらって時間を潰しているのだろう。面接官が適当な会話を始めたら、採用をしないと決めた時なのだと、どこかの就職サイトの記事で見た覚えがあった。この人は少し間を取るようにして次の質問を投げかけてきた。
「では、面接らしい質問もしておこうかな。これまでに一番頑張った事は何かな。」
それみたことか。僕はこの物申しようを聞いて、後日に不採用の通知が来るのだと確信した。それなら早く終わらせて帰らせて欲しいものだ。けれど、この質問ならマニュアルとして例題も回答も有ったので、簡単に答えられる。僕がいつも望んでいる安心安全という、お決まりのパターンだ。僕はいつもの部活経験を話すことにした。
「はい、中学生の頃からサッカー部で、試合に向けて一生懸命に練習してきました。」
「そうか、ところで、サッカーって何が面白いのだろうね。教えて。」
何、どういうことだ。この流れなら、大会に出場した経験とか、部長をやっていた経験が有るかなどと言う、そういう類の実績について聞くものではないのか。何が面白いかって、ただ面白いから面白いのだよ。心の叫びは、僕の中で木霊していた。それでも、何とか知恵を振り絞って回答を導き出す。
「えっと、僕はフォワードだったので、やっぱり点数を取れた時が楽しかったです。」
「なるほどね、あっでも、ちょっと質問の答えと違うかな。サッカーというものは何が面白いのだろうという質問だよ。」
確かに質問の意図と回答が異なっていた。サッカーについて訊かれたのに、僕の感想を伝えてしまっていた。失敗したという感情が心の底から僕を追い詰め始める。右手にまた汗が滲み出て、とっさにスーツの上着に入れていたハンカチを取り出して、きつく握った。もう考える事も追いつかない。
「えっと、サッカーはチームプレイだけど個人プレイもあって、そういうところが面白いのだと思います。」
我ながら、とっさに出てきた回答としては悪くないと思った。
「そうかそうか、確かにチームプレイと個人プレイは違うよね。その視点は、なかなか面白いね。」
「ちなみにね、僕は水泳部だったんだ。」
だから、あんたの情報はいらんよ。ずっとこの調子で話を続ける気なのだろうか。質問をされているのだけれど、どちらかというと教えを請われている感じだ。僕が頭に持参してきていたマニュアルは、既に役に立たないゴミ屑になっていた。この展開を止めなくてはいけない、直感的にその様に考えもしたのだけれど、その方法が思いつかない。この人は、僕の方をずっと見ている。そしてまた少し間を置いてから質問を投げかけてきた。
「では少し変わるけれど、フォワードの役目とは何だろう。教えて下さい。」
「それは、やはり点を取ることだと僕は思っています。点を取らないと勝てないから。」
「なるほど、ではフォワードが格好良く見えるのは、どんな時かな。教えて下さい。」
「それも点を取れた時だと思います。」
「なるほど、では目白さんは、点が取れたら満足でしたか。それで満足できたかな。」
「えっと、どういうことでしょう。」
この人は、初めて満面の笑みを浮かべて話を続けた。まるで友達と話しでもしている様に、テンポよく会話を続けてくる。
「応援の声が聞こえた時、格好の良いシュートが打てた時、女の子にキャーキャー言われた時、違うかな。」
そうだ、その通りだ。何だかんだで、その通りだ。でも面接の場で言える筈が無いだろう。
「そうですね。確かに良いプレーができた時は満足してたと思います。」
流石に女の子の声援を受けた時とは言えなかったので、その答えを選択した。それが精一杯だった。
「目白さんは素直だね。目が嘘をついていないし、態度にも出ていなかった。」
「けれどもズルいな。私はね、もっと目白さんを知りたかったのだけれど、どうしたら良いのかな。」
僕としては嘘をついていないし、適切な回答だろうという選択もして回答した。何が気に入らないのだろうか。
「面接の場というのはね、私が目白さんを評価するだけの場所ではないんです。目白さんも私や会社を評価するべき場所なんですよ。これまでお話をしていて、何も疑問に思いませんでしたか。何故この様な質問をしてくるのだろうと思いませんでしたか。もし思ったら、もっと訊いても良かったんですよ。目白さんが疑問を返してくれたのは、一回だけでした。」
この人は少し眉を顰めて、理屈を話してくれた。
「仕事を選ぶには、目白さんは経験が浅すぎる。仕事を知らない訳だから、選べないのが当然だと思っています。バイトも間違いなく仕事なのだけれど、就職するとなると少しばかり勝手が違ってくる。入社後は更に想像と大きく違うでしょう。けれども事前にそれを知る術はないですよね。だから、せめて社内の雰囲気や仕事の事を聞いて欲しいと思っています。初めに会社説明をさせていただいたのは、そのためなんですよ。だからもっと、私にも質問をして良いんですよ。」
確かに僕は、仕事というものを知らない。アルバイトもしたことが無い。父さんが会社で何をしているのかも、よく知らない。確か不動産会社で仕事をしているという事だけは聞いたことがある。けれども具体的に何をしているかは知らないのだ。
「そして私との会話や、ここまで案内をしてくれた社員の印象を通して、会社の風土や雰囲気を検証して評価して欲しい。私はね、その結果を志望動機として、選んでくれれば良いと考えています。目白さんと私たちの評価した結果が、仲間になっても良いと判断であれば、先ずは双方合意という良縁になるでしょ。部活もそうじゃないかな。独りではできないだろうし、試合で負ければ悔しいだろう。でも仲間がいるから頑張れるし、日々を楽しいと思える。違うかな。だから私は目白さんという、一人の人間について仲間に向かい入れて良い人かを知りたかったのだけれど、なかなか難しいものだね。」
やっと理解した。少なくとも司馬さんの言うところは理解したと思う。要するに普段の素に近い僕を知りたかったというところか。そんなものを面接で見せるのは無理だ。少なくとも僕に、その様な勇気はない。けれども幾度となく仕組まれていた巧妙な罠は、僕の内面を覗くためのものだと分かった。敢えて自分の話をして少し間を取っていたのも、僕が司馬さんに質問ができる様に誘導していたのだ。僕はこの人を少し誤解していた。僕を虐めていたのではない。不採用を決めて適当に時間を過ごしていた訳でも無い。最後まで僕の反応を確かめていたのだ。
司馬さんは少しだけ目を詰むって、考えている様だった。今更、何を考えているのだろう。司馬さんの思惑が僕の理解した意図と一致するのだとしたら、僕は素を隠すために繕っていた。殆どはネット情報を思い出して話をした模範回答だった筈だ、と思う。そうか、ようやくこの奇妙な面接から解放されるのか。今度こそ本当に、不採用という結果が後日送られてくるのだ有ろうと確信した。司馬さんはすっと目を開けて、僕を見詰めてくる。僕は、その目線から何故か目を離せなかった。
「最後の質問をさせていただきますね。」
「はい。」
「目白さんは、なぜ就職をしようと考えたのですか。」
最後の最後に、想定外過ぎる質問だった。入社の志望動機を一度も聞かれていないというのに、就職活動をしている動機を聞かれたのだ。そして、これは絶対に本当の事を言えない問い掛けでもあった。それなのに僕の目は、今日一番に強い視線を向ける司馬さんを捉えていた。あたかも獲物を狩るハンターの様な視線だった。
「迷っている様ですね。二分だけ時間を取りますので、考えてみて下さい。」
そう言うと、司馬さんは腕時計を眺め始めた。針時計なのだろう、秒針を目で追っているようだ。僕は少しだけ安堵していた。二分とはいえ、考える時間を得られたのだから。嘘を考える時間を得られたのだから。けれども、こういう時に限って浅知恵が浮かばない。あの時は、簡単に舞い降りてきた癖に、今この瞬間に何も浮かばない。僕は何度となく目の前の司馬さんの方を見た。僕の腕時計ではなく、目の前に聳え立つ時計台を見ていた。司馬さんが顔を上げた時がその時だ。そして僕は覚悟を決めた。
「二分経ちましたが、どうでしょうか。考えは纏りましたか。」
「はい。僕は就職をするかを悩んでいます。」
「まだ進学の方向性も考えていて、大変失礼だとは思っていますが、就職活動をしながら考えようと思っていました。」
「中途半端なことも分かっているのですが、どうしても気持ちの整理が付かず、今回応募させていただきました。」
司馬さんは、意外にも私に優しい目線を向けた。僕は心の中で、母さんと話をした時の様な、そんな展開になってしまう事を想像していたのだが、明らかに違う。父さんと話した時の素っ気ない展開とも違う。全く異なる方向性の展開になった。
「なるほど、分かった。あのね、世の中にある常識というのは、正しい事とは限らない。それが真実とも限らない。それは現実の一つでしかないんだ。ではね、この場で内定を出します。」
「えっ。」
司馬さんから出てきた言葉に、僕は耳を疑った。それを考える猶予も与えられず、話は続いた。
「内定を出すかどうかを、後で決めるなんて事は殆どないんですよ。大抵の場合は、その場で決まっているんです。後になれば印象も薄れてしまいますし、書き残したメモ頼りになってしまうでしょ。私はメモも取りませんけどね。無駄な時間は省きましょう。」
確かに、司馬さんがメモを取っている形跡はなかった。常に僕と向き合って話をしてくれていたのだ。形式的な質問などではなく、一人の人間と向き合って話をしてくれていたのだ。僕は今になって、少し後悔をしていた。司馬 萌芽さんは面接に来た人ではなく、目白 綴と話をしてくれていたというのに、僕は何処にでも居る面接官としてしか見ていなかったのだ。
「目白さん、最後に少しだけ話を聞いてくれますか。」
「あっはい。」
司馬さんの視線は変わらず優しい。けれど何かを確信するかの様に、とても力強く僕の心に突き刺さってくるものだった。
「目白さんには、選択できる幾つかの未来があります。勉強も止めてバイトを始める未来。いろいろ望みが薄いので、僕は避けて欲しいとは思っています。それから就職をして一心不乱に社会を学ぶ未来。悪くは無いけれど、その先の選択肢は少なくなってしまうかな。最後に大学に進学して、自分なりに世界を広げて歩む未来。でも幸せが約束された道でもないし、想像とはだいぶ異なると思いますよ。どの選択肢も目白さんに委ねられています。誰も責任は取ってくれません。決めるのも進むのも自分ですよ目黒さん。だから自分の頭でよーく考えて下さい。」
まるで有名な占い師が、僕の未来を予言してくれていたかの様で、つい聴き入ってしまった。別に占いなんて信じていない。朝の天気予報すらまともに見ない。でも僕は片津を飲んで聴き入ってしまった。どれもが当たり前の選択肢ではある。けれども、それが誰にしも当て嵌るものとは思えなかった。それは、明らかに僕の未来の様に感じたのだ。
「そうそう、相談をするのであれば、両親ではなく友人が良いだろうな。そうだな、きっと直ぐにその機会がやってくる、そんな気が私はしますね。これはね、単なる私の勘ですから気にしないで。そして、どの選択肢を選んだかを一週間後に連絡をして下さい。よく考えてね。この決断にやり直しは許されませんよ。なんてね。」
話が終わるとそこに、面接室まで案内をしてくれた女性が入ってきて、いつもの事の様に司馬さんに話し掛けてきた。もう面接が終わることを予測していたかの様に、それはあまりにも自然な流れで、まったく違和感を感じなかった。
「司馬さん、またですか。」
「丁度、面接が終わったところだから、出口にご案内を差し上げてくれるかな。」
「はい、承知致しました。それでは目白さん、それじゃー、お帰りの準備をなさって下さい。」
僕はその言葉に戸惑った。面接が終わってしまうのか。直ぐに訊かなくてはいけないという衝動に駆られた。こんなにも強い衝動に駆られたのは初めてだった。知りたい何かが有ったのだ。けれども僕の口から出た言葉は、それとは異なるものだった。
「何故、内定をいただけたのでしょうか。」
司馬さんは、変わらず優しい視線を私に向けていてくれた。その質問に対して微動だにもせず、考える素振りさえなく、直ぐに返答をしてくれた。
「敢えて言えばね、目白さんの選ぶであろう選択肢が分かる様な気がするんです。私は短い時間だったのだけれど、目白さんを知ることができた。だから分かる気がするんですよ。そして数ある可能性の一つを私は提供しただけです。私にはそれを歪める事ができないからね。繰り返すけれどね、決めるのは目白さん自身なんですよ。」
出口に案内してくれている女性の後を追う様に、僕は身支度を整えた。司馬さんは、そんな僕を急かすことも無く静かに見守ってくれていた。僕は何かを感じていた。その時はまだ分からなかったのだけれど、少なからず面接を受けて始めた時と司馬さんの印象は変わっていた。この人は何もかもを見透かしている。そんな気がしているのに、嫌な気持ちや避けたいという気持ちではなく、もし許されるなら、もっとお話を聴きたいと思っていた。
「目白さん。先ほど就職活動をしながら考えようと思ったと言っていたよね。」
「あ、はい。」
「もう答えは出ている筈だよ。けれど自分の中の答えは、なるべく深堀して明確にしておくと良いよ。」
「あ、はい。」
エレベーターを待つ間の些細な会話だった。行きも帰りも案内してくれた茶髪で小柄な女性と、司馬さんは同じような優しい目をしていた。特に女性の方は、この展開を分かっていたかの様に、まるで「良かったね。」と言っているかの様だった。エレベーターが到着すると、二人が揃って挨拶をしてくれた。僕もそれにお礼を言い返す。
「今日は、弊社までお越しいただき、ありがとう御座いました。」
「こちらこそ、ありがとう御座いました。」
エレベーターの扉がゆっくりと閉まる。そして閉まった後に、うっすらと声が聞こえた。
「今回こそ、良い意味で裏切って欲しいな。」
面接から三日が過ぎていた。既に予備校の夏季講習も始まっていて、僕はまた仙台駅の予備校に通う毎日に戻った。けれども人間というのは、残念なことに簡単には変われない。僕は残っていた一社の面接を断って就職活動も止めていたのだけれど、特別に前向きな目標もない訳で勉強は捗ってはいなかった。それどころか、遊びに行こうよと言う悪魔の囁きに心奪われていた。そう、あの内定と言う言葉が、大学受験に失敗した時の滑り止めの様に感じていたのだ。
けれども、あと四日で連絡の期限が来てしまう。内定を受け入れれば、大学受験は不要になる。内定を断れば、大学受験をしなければならなくなる。いや、適当に過ごすという選択肢も有るには有る。今の勉強の仕方では、きっと受験は受からないだろう。選択肢か。そう、あの面接からずっと、選択肢について考えていた。
突き付けられた三つの未来。当たり前のように感じる未来予想だったけれど、何か引っ掛かる。それが何か分からないまま、モヤモヤとした気持ちが続いていた。気にする程ではなかったのだけれど、それでも期限が迫ってくると、それなりに焦ってくるものだ。明日から土日だ。予備校も無いし、少し気晴らしに出掛けて、それから答えを出そうと僕は考えていた。相変わらず浅はかだ。
母さんと父さんは、面接の結果を聞いては来なかった。きっと、どこに行っても面接で落ちていると思っていたのだろう。僕が何も報告をしないものだから、まさか内定を出してくれた会社が有ったなんて、微塵も考えてはいないのではないだろうか。そして、諦めて大学受験の勉強を本格的に始めるのだろうと、多寡を括っているに違いない。そう考えると、優越感と反骨心の両方が湧いてくる。
僕は漆黒の机で勉強を始めた。何故か分からないが以前よりも、いささか集中力がある。それは何となく感じていた。それでも、どこかで明日の出掛け先をどうしようか、そんなことを考えていた。僕が勉強をしていた理由は、大学進学を決めたからではない。まだ選択をできていなかったからだ。深夜一時過ぎになって、何も決められないまま、僕は就寝していたのだった。
光を感じる。暑い日差しが窓から差し込んでいた。どうもカーテンを閉め忘れていたらしい。強い日差しが朝から入り込んでいて、部屋も蒸し暑かった。スマートフォンを見ると、まだ七時半だ。土日の僕にとっては、かなり早起きだ。最近の僕は、だいたい十字時頃まで寝ていた。夜も朝も遅いという、ニートらしい習慣が身に付いていた。平日は予備校があるので、母さんの力を借りる事で何とか起床していたが、土日は自由奔放だ。それを父さんも母さんも五月蠅くは言わなかった。
それでも、今日は出掛けようと思っていたので、そのまま起きた。起きれたという表現の方が正しい気もするのだけれど、その足でトイレに向かうと、右側のリビングでテレビを観ている母さんが目に入った。
「おはよう。」
「あら珍しい、こんな早くに起きてきて。おはよう。今日は何処かに出掛けるの。」
「うん、ちょっと気分転換をしてくるよ。夕方頃には戻って、また勉強するから。」
「そう。少しは真面目に勉強をする気になったのかしら。」
少し嫌味っぽかったけれど、僕は聞き流していた。父さんは、まだ起きてきていない様だった。父さんも仕事人間なので、普段は夜遅くに帰ってくることの方が多い。土日は僕と同じくらいに起きてくるのだけれど、昼頃から部屋で仕事をしている事も少なくなかった。
僕はトイレで用を済ますと、そのまま洗面台に行き顔を洗った。まだ朝早かったのだが、たまには散歩でもしようかという気になっていた。これもまた珍しい事だ。近くに大きな公園が有るのだけれど、僕はあまり足を運ぶことが無かった。けれど気分転換をするのには、丁度良いと思ったのだ。普段と違うことをしたら、何か考えが思いつくかも知れない。そんな風に思っていた。
「何か食べる。」
「いや、ちょっと外を歩いてくるよ。」
「どこへ行くの。」
「そこの公園。せっかく早く起きたのだし、たまには朝の空気を吸ってきてみるよ。」
「そう。珍しい事もあるものね。直ぐに帰ってくるのでしょ、ご飯を作って待っているわ。」
僕は軽く髪をセットして、適当な服を選んでは、さっさと着替えた。別にお洒落をする必要も無かったし、あまりそういう物には興味が無くて、どちらかというと疎い方だった。それに、行先は目と鼻の先にある公園だ。この時間では、朝の散歩を日課としている様な、お年寄りがいるくらいだろう。いや、この日差しでは、お年寄りもいないかも知れないな。
僕は準備ができると、そそくさと表に出た。家の扉を開けると、少しだけ違った風景に見えた。真夏の日差しというライトが、青白い光で僕を照らした。部屋にいた時は強い日差しと蒸し暑さを感じたのだけれど、少しだけ風が吹いていたお陰か、部屋の中よりも涼しく感じた。それは一時のことではあったのだが。
徒歩5分ほどで、緑園公園に到着した。ここは土日の昼間にもなると、どこぞやの家族が子供たちと遊んでいる光景を見ることができる。この時間は流石にいないようだ。想像をしていたような、お年寄りも見かけなかった。犬の散歩で歩いている人が、一人、二人、三人だろうか。奥の方にも同じように犬の散歩に出てきている人が見えた。お互いのすれ違い様に挨拶をしているのが見えた。
公園に出てきたからと言って、特別に何か閃くこともない。選択肢をどうするか。それを決める切っ掛けがそこには無かった。それでも運動不足だったと思うし、少しだけ歩いて帰ろうと思った。一週すると約三キロ程あるこの公園は、ランニングコースとしても利用者が多かった。まだ涼しい時間だったからか、そんな人達とすれ違いながら僕は無心で歩いていた。
「あら、もしかして目白くん。」
どこかで聞き覚えのある声が、横の道脇の方から聞こえてきた。僕が目を向けた先には、白い木製のベンチがあって、そこには高校時代に同じクラスだった天川 詩織が座っていた。スポーティーな服装で、きっとランニングでもしていたのだろうと、容易に想像ができる。髪も少し汗で濡れているようで、きっと運動後の休憩なのだろうと、さらに想像が膨らむ。
「目白くんだよね。」
「あぁ、天川か、久しぶりだな。」
「やっぱり、久しぶりだね。」
それはそれは、久しぶりである。高校を卒業して三ヶ月以上になるのだ。高校卒業後の三ヶ月は、なんだか長い。全然違う世界を生きている人間としては、見事に有名短大にストレートで進学した天川とは、別の時空間を歩んでいるのだ。それに高校の同級生と言っても、普段から仲良く話をしていたという関係でもなく、家は確か近くだったと思うのだけれど、だからといって幼馴染のような関係でもない。要するに、ごく普通の同級生と言う程度の関係だった。
「こんなところで合うなんて、何かすごいね。」
「そうか。」
「そうだよ。だって一度も会ったこと無いよね。」
「そうか、そう言われてみると、そうかもな。」
これで分かっただろう。僕がどれだけ、この公園を利用していなかったのか。いや、利用していたとしても天川と同じ時間を共有していたかは別の話なのだけれど、それでも年に数回くらいは、もしかしたら出逢っていたかも知れない。きっと、ここでランニングをしているくらいだから、天川はそこそこの頻度でこの公園を使っていたのだろう。都度ランニングをしていたかについては、僕の想像の域を超えていないのだが。
「ランニングでもしてたのか。」
「そうだよ、良く分かったね。」
「いや、その恰好を見れば、だいたいは想像つくだろう。」
「そっか。」
そういうと、天川は手元のタオルで汗を拭った。頬のあたりを、汗が流れている様だった。この陽気だし、走れば汗も掻くだろう。歩いているだけで、汗だくになっていた僕が考えるまでもない。
「そういえば、目白君は今何しているの。」
「今日は何時もより早く起きたから、気まぐれの散歩だよ。」
「そうなんだ、てかそうじゃなくて大学。進学したんだっけ。」
ちょっとだけ、後ろめたさを感じた。別に恥じることでも無いけれど、彼女は華の女子大生だ。一方で僕は、次の受験すら危ういニートまっしぐらの受験生だ。朝から嫌な事を考える事になったな。
「いや、浪人だよ。今も予備校に通っている学生だよ。」
「そうだったんだ。でも私だって学生には変わりないよ。」
「お前は大学生だろう。良いよな、受験に合格できてさ。」
「そうかな。良く分からない。確かに大学に進学はできたけれど、あまり変わらないかな。」
そんな筈はない。大学に進学したという事は、あの輝かしく羨ましいキャンパスライフってやつを横臥している筈なのだ。そして、どこぞやのサークルなぞに参加して、高校とはまた違った青春を楽しんでいる筈なのだ。それが、あまり変わらないとは怪しからん。そう思うと、その言葉に少しイラっとした。
「大学に行ったらさ、数年年間は遊んでいられるじゃんさ。」
「そんなこと無いよ。確かに高校生の頃と比べると自由だけれど、単位も取らないといけないしね。」
「そうなのか、でも門脇なんかは、遊び惚けている様だぞ。」
門脇とは高校時代の親友だ。同じサッカー部で、今日の僕とは違う清々しい汗を流していた仲間で、見事に二流大学に進学した。二流にも進学できなかった僕は、三流とも呼べないのだが。これも結果的に自分に当てつけとなる皮肉だ、もう止めよう。門脇とは「ずっとサッカーやろうな」なんて言っていたのだけれど、大人の階段を登るというのは、そういう事なのだろう。その夢は高校を卒業と共に綺麗さっぱりと忘れられ、どうもテニスサークルに入っているらしい。何故にテニスサークルに入ったのかについては概ね予想が付くが、そういうところは昔から変わらない奴だった。
「私は卒業後に留学してみたいと思っているから、それなりに勉強も続けているんだよ。」
「マジかよ偉いな。俺はてっきり、大学は遊ぶ時間欲しさに行くところだと思っていたよ。」
「えー。それは、目白君くらいでしょ。」
天川は、おどけた顔で笑って見せる。
「いやいや、世間一般の多くがそう思っているだろう。常識だよ常識。」
「そうかな、私の周りには、そんな風に言っている人はいなよ。」
なるほど、やはり生きている次元が違うのだと思った。少なくとも僕の周りは、大学に行ったら遊ぶ事しか話していなかった。僕も同様だ。だから大学に進学するという意味で言えば、遊ぶ時間を少しでも多く手に入れる事だったし、おまけで就職活動も有利になるだろう程度の考えだった。
「天川はさ、意識高いよな。」
「そんなこと無いよ。私はこれが普通だと思っているだけだし。」
「ぶっちゃさ、俺は本当に進学をしたいのかすら、良く分からないんだよな。」
「ふーん。」
「だからさ、就活してみたんだけれど、何かそれも違う気がしててさ。」
「ふーん。」
「どうしたもんかね。」
天川は僕の話を聞きながら、また額の汗を手元のタオルで拭っていた。天川も朝から災難だろう。こんなにうだつの上がらないニートの話を聞かされているのだから。今更ながら、声を掛けてしまった事を後悔しているのではなかろうか。
「そっか、ならさ、その常識とかいう欲望のままに進んでみれば良いんじゃない。」
「はぁ、欲望のまま。どういうことだよ。」
天川はベンチの前に両足を突き出したかと思うと、それを振り子の様にして、さっと立ち上がった。そして口元に人差し指を立てて、まるでドラマで観る探偵の素振りの様な雰囲気で、話の意図を説明してきた。
「目白君はさ、何をしたら良いか分からないって言ってたじゃない。」
「あぁ。」
「でもさ、遊ぶ時間が欲しくて行こうと思っていたんだよね。」
「あぁ。」
「それで十分じゃないのかな。他に目的が無いのなら、それを目的にしてしまったら、どぉう。」
その意図は、適切な適当だった。
「そんなんで、良いのかね。」
「そんなんで、良いでしょ。後は大学に入ってから考えれば良いと思う。」
「でも。」
「だってさ、四年間も有るんだよ。きっと目白君は短大を選ばないだろうしね。」
強い眼差しだった。確信に満ちたような、何か正解を見つけたような、天川なりに考えた答えだったのだろう。そうだ、こいつは確かそんな性格だった気がする。自分なりに答えを見つけると、急に積極的になる。女子の中でもリーダー的な存在だった気がする。そして天川は、自分の考えを説く様に話を続けた。これが優等生の思考なのだろうな。
「私だって、進学したことが正しいことかは分からなかったよ。」
「そうなのか。」
「うん。でも進学してから新しい友達と出会って、話をしてたら海外留学したくなっちゃたの。それだけ。」
「優等生のお話だよな。」
「もう、そんなこと無いよ。私も何となくだったし、進学するのが普通って思っていただけだしね。」
「俺もそうは思っていたけれど、受験に失敗するとさ、いろいろ考えるんだよ。」
嘘を付いていた。僕は受験前も受験に失敗した後も、大して考えた事なんてなかった。考える様になった切っ掛けが有るとするなら、そう、あの面接だろうか。選択肢を迫られる事になって、少しだけ将来を考える様になった。だからこそ、今ここに僕はいるのだ。
「そっか、でも私の大学にも三浪で入ってきたって人がいたし、受験に落ちたことは気にしなくていいと思う。」
「三浪って、それもすごいな。受験勉強を三年も続けるなんて、俺には出来ないな。」
「うん、私も無理だと思う。でも、その人も目白君と同じ理由で大学に進学したみたいだった。そこまでして入ってきたのに、単位大丈夫かなって感じだよー。」
またあどけない顔で笑う。
「なるほど、遊ぶための進学ね。だいぶ不純な動機だな。」
「不純でも動機が有れば良いんじゃないかな。そういうのが無いと頑張れないよね。」
確かにそうだ、僕が進学に本気になれないのは動機が無かったからだ。就職活動も同じだった。僕には、未来への動機が何一つなかったのだ。何をしたいとか、将来どうなりたいとか、まったく考えた事も無かった。だから、何となく一般的な常識と言われている様な、そんな大学進学にしがみ付いていたのだと思う。
「でも凄いな、就職活動までしてみたんだ。」
「凄かないよ、受験勉強が嫌になって、やってみただけだから。」
「それでも凄いよ。それだけ行動力が有るのなら、きっといろいろできるよ。」
「そんな大層なことではないけれど、内定はもらった。」
「本当に、凄いじゃない。じゃあ、そこと悩んでいるの。」
この時に、司馬さんの言葉が、脳裏に浮かんだ。
「もう答えは出ている筈だよ。」
確かに答えは出ていた。そして、天川と話した事で、その答えは確信に変わりつつあった。僕の答えは始めから分かっていたのに、その理由付けが欲しいだけだったのだ。その理由を僕が自分の中で正当化できていなかったから、目を背け続けていた。不純な動機。常識的に考えて、それを動機とは言えないだろう。だから途方に暮れて迷っていたのに違いない。どこぞの誰かに、僕は良い顔をしていたかっただけなのだ。格好を付けたかったのだ。けれど天川の言葉で、それが全て許された様に感じた。
「いや、行かない。」
「そうなの、もったいないな。それとも、そうでも無い会社なのかな。」
「もう少し遊びたいしね。そうだな、来年は遊び惚けてやるさ。」
「そんな言い方をされると、応援しずらいね。」
久しぶりに笑っていた。大抵の人達には、馬鹿馬鹿しい話に聞こえるのだろうが、僕の中にあった霧が、そこには無かったかの様に一瞬で晴れていった。その許しが欲しかったのだ。こんな動機では、父さんも母さんも、許してはくれないだろう。けれども、僕にとっては大学受験に臨む十分な動機になった。僕はその程度の人間なのだ。きっと父さんと母さんには、嘘の格好を付けた理由を見繕うけれど、心の中で選択肢は決まった。
「さてと、私はそろそろ帰るね。」
「あぁ、なんか久しぶりに同級生と話ができて良かったよ。」
「そうね、私も楽しかった。またこの公園で会えるかもだね。」
「普段は、こんな早くに来ないからな。次も会えたら奇跡だ。」
ちょっとだけ天川が眩しく見えた。そういえば高校時代を思い出してみると、男子仲間の中では、可愛い子の中に必ず名前が出てくる様な女子だった。僕にその気は無かったのだけれど、その時ばかりは少しだけ、そんな気になった。気になったのはきっと、感謝の気持ちからだったのかも知れない。
「それじゃあね。またね。」
「あぁ、じゃあな。」
天川は軽く手を振ると、小走りで小道の方へ掛けていった。僕も軽く手を振りながら、その後姿を見ていた。まだ走るのか、元気な奴だな。僕は汗だくで、もう外出はいいやと、残りの時間は家で過ごすことも決意するのだった。
連絡期日の日。結局、最終日まで連絡を出来ずにいた。けれども答えは決まっていて、あとは電話をして終わりだった。電話をしなければならないのだけれど、後ろ髪を引かれる気持ちが少しあったのだ。スマートフォンには、しっかりと電話番号が入っている。掛けるのは容易だ。だけれど勇気がいる。断るだけなのだけれど、どう話したら良いか分からなくて、電話を掛けれずにいた。
今日も僕は予備校が終わり帰宅していた。母さんはパートが長引いているらしく、まだ帰ってきていない。その状況が僕の決心を固めさせてくれた。この時間しか電話をできない。母さんが返ってきてからだと気まずいし、自分の部屋で電話するにも声が漏れそうで、それもまた気になる。それなら、今しかないなと思ったのだ。僕は徐にスマートフォンに登録していた株式会社チョイスの電話番号を確かめて電話を掛けた。
「はい。株式会社チョイスで御座います。」
電話口には、聞き覚えのあった女性の声がした。然程お話はしなかったのだけれど、聞き心地の良いこのテンションの声は、耳に残っている。あの時の茶髪で小柄の女性だと断定するには十分だった。
「あの、先週に面接をしていただいた目白ですが。」
「ああ、目白さんですねー。ご連絡をお待ちしていましたよ。」
「あの。」
「ちょっと待ってて下さいねー。面接をさせていただいた、司馬と代わりますね。」
少し緊張していた。この女性の方が僕の回答を伝えやすかったからだ。どこかで逃げ腰だったのだろう。悪い事をしている訳では無いのだけれど、折角、内定まで出してくれたというのに、僕はこれから、あの司馬さんに直接内定を断らなければいけない。
「はい、もしもし目白さんですか。」
「はい、目白です。先日のご連絡をさせていただきました。」
「はい、それで、どうしましょうか。」
またか、そう言ってくるのか。相変わらず調子を狂わされる。まるで、御用聞きの様な返しに僕はそう思った。
「大変申し訳ないのですが、進学をする事にしました。」
「そうですか。それはちゃんと自分で考えた選択で間違いないですか。」
「はい。もう一度だけ、ちゃんと勉強をして大学に行こうと思います。」
「分かりました。それであれば、それ以上は聞きません。目白さんが選んだのですから、それで良いですよ。」
「でもね、内定は取り消しませんよ。これから四年、五年かな。内定は保留にさせていただきます。」
「え、でも。」
「うちに来なくても構いませんよ。もし就職先として覚えていたら、また面接にではなく会いに来て下さい。」
「良いんですか。」
「私は所長ですからね。決定権は私に有ります。大学も頑張って下さいね。」
「ありがとう御座います。」
こうして、僕の二度目の大学受験シーズンが始まった。流行りのセカンドシーズンと言うやつだ。少し遅くはなったけれど、その後に取り戻すのは容易だった。それほどに、僕の集中力は高校時代とも比較にならないものだったからだ。僕が大学に進学する動機は、四年間遊び惚ける事。けれども、その動機は不動なものだったし、他に選択肢となる動機は無い。だから集中できたのだと思う。そして、何よりも司馬さんとの出逢いが、僕の動機を見つける切っ掛けになったのだ。
僕があの日、公園で天川と出会ったのは偶然だったのだと思う。けれども、あの日に公園に行ったのは、司馬さんとの出逢いが有ったからというのは間違いない。それが無ければ、僕は選択肢を考えてなどいなかったし、それが無ければ、公園に出向くことも無かっただろう。もしかしたら、あの見透かされた様なやり取りの中で、僕は誘導をされていたのかも知れない。
けれども司馬さんは、僕がその選択をする事が分かっていたのだろうか。断りの電話をした時に、司馬さんは、それを分かっていた様な対応だった。驚きもしなければ、入社を説得する様な事もしなかった。更に言えば、その先にも選択肢を残してくれている。あの人は何者だったのだろうか。もし天川と出会う事さえも分かっていたとするのであれば、本当に占い師か何かなのか。この世界に、本当にそんな人が存在するのだろうか。
この答えも分かっている。そんな筈はない。僕は占いが統計学の一種だという事を知っているし、未来を正確に予測するのは不可能だ。勿論、当たる可能性はある。けれど、どこか腑に落ちない。では超能力や霊力みたいなものなのか。そんなものが有る筈は無いのだ。僕の人生の中で、少なくともそれらは全て偽りであって、真実だった事など一度も無い。いや無かった。常識的に考えて、そんなことは有り得ないよな。
「あのね、世の中にある常識というのは、正しい事とは限らない。それが真実とも限らない。それは現実の一つでしかないんだ。」
これが、僕と司馬 萌芽の出逢いだった。