なるほど、文書を書くということ

 まず初めに、私がなぜ文書を書くのかについて、書いておこうと思います。問いの「なぜに文書を書くのか」について、私の出した解は「書きたいから」です。これは単純明快であり、そして何度も何度も自問自答をして導き出した解でもあります。

 解については、いつでも実に「単純明快」なものであり、実に「不可解で曖昧」なものだと思います。それが故に面白いものであると、私は考えているのです。多くの問いに対して、始めは考え過ぎるのですが、変幻自在な「鍵」を見つけた途端に、解は単純明快なものとなり、五感で感じられるようになります。時には、第六感と言われるものの何かを感じることすらあります。

 私は文書として、それらの問であり、解に至るプロセス、そして私の導き出した解について書きたいと思っています。その表現方法については、3つの形式を利用します。今後においては増減する可能性も有りますが、少なくとも今は3つで良いというのが私の解です。

・記事という形式
・小説という形式
・感想文という形式

 私の文書は、日記であり、日誌であり、ブログであり、記録であって、記憶の断片を残すためのデータベースであったりします。文書を書くにおいては、私も読み手を想像して書こうと思っています。その読み手に、私の考えや感じていることを伝える表現方法として、長年かけて導き出した解です。

 文書にはノンフィクションもフィクションも有りますが、フィクションは比喩として創造して書いていますので、事前にフィクションであることを明かします。つまり、それ以外はノンフィクションとなるわけですが、そこには私の個人的な意見が含まれることもあります。それをノンフィクションと定義するのは難しいかも知れません。

 個人的な主観というのは、解として「不可解で曖昧」なものです。その時の環境や気分によって変化し、また外側から見たときにはフィクションとなり得ます。いいえ、フィクションなのです。その真実を知る人は、記事を書く私以外に存在しないからです。それは、私にとってのノンフィクション。それもまた、記憶という軸においては「不可解で曖昧」なものであったりするのですが。

 実のところ、私は何度も文書を書いてきました。長期にわたり書き続けたものもありました。けれど、どれも白紙に戻しています。白紙に戻す切っ掛けは、いつも同じで「なぜ文書を書くのか」という自問自答に、解を得られなかったからです。単純に書き続けた時間もあれば、アフェリエイトなどを試していた時間もあります。いずれの時間の中にも、解を導きだせませんでした。

 それでもまた「なぜ文書を書くのか」。

 書くことは好きです。考えることも好きです。読んでいただけた時は、それだけで嬉しいのです。これが私の解です。

 解については、いつでも実に「単純明快」なものです。ところが、深く考えすぎて見失うことがあります。目の前にある、その解に気づけないのです。分かっている、その解を受け入れられないのです。何か特別な理由が欲しくなるのです。こじつけが欲しくなるのです。あまりにシンプルで「単純明快」が故に、なにかこう、素直になれないことがあるのです。そして辿り着くのです。それが解なのだと。

 これから書き起こしていく文書は、とても読みづらいものかも知れません。それでも、お読みいただける読者様と出会えた時には、私の文書が読者様の何かと結びつき、解を見つけていただける切っ掛けとなれば幸いです。

仲良くしてくださいね。

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